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*本コンテンツは、これまで元町公式メールマガジンにて配信しておりましたコラムです。

2020年(令和2年)12月5日号 元町コラム
横浜開港200年〜Y200(2059年)を夢みて!

【特集】 行く川の流れは絶えずして、、、その39
〜高島嘉右衛門さんの事 その(16) 〜

嘉兵衛(後の高島嘉右衛門)が牢替えで浅草溜の「二番牢」へ移る際、6ヶ月間のご縁だった牢名主から供されたお別れの品は易学の本でした。この上下二巻からなる「易経」は、以前、同じ牢に投獄されていた勤皇派の侍、水戸の浪人が遺(noko)していったものでしたが、折しも嘉兵衛が幼い頃から学び親しんでいた四書五経(shisyo gokyoh)の一冊で、これまで忙しく商売に奔走して来た嘉兵衛にとっては忘れかけていた「易経」でした。

別項でも述べましたが、儒教の教えの中で最も重要な経典からなるこの「四書五経」は、宗の時代に朱子が四書を加え、「易経」「書経」「詩経」「礼紀」「春秋」の五経と、「大学」「論語」「孟子」「中庸」の四書からなり、その筆頭の「易経」は言わば現代で言う哲学書でもあり、『周易』とか、単純に『易』とも呼ばれて人間形成の根本を説く人間学の書でもあったのです。

いつ出られるのか見当もつかない牢獄生活で、自らの更に若き日に、商家の跡取り息子として学び、事あるごとに商売や人間関係の判断材料としてこの「易経」を指針として生きてきた嘉兵衛にとって、有り余る時間がある牢生活の日々の愛読書としては格好の宝物のような本でした。

漢文二万字余りの本が示唆する内容も、自分のこれまでの人生模様を加味すると嘉兵衛にはよく理解できたし、何しろ豊富な時間だけがある牢の中、一文字残さず全文を暗誦できるほどになった嘉兵衛は、六十四卦の何『爻変』(こうへん)と言うだけで、該当するその文章がパッと頭に浮かぶ程までに習得出来たのです。

『爻変』(こうへん)とは、易や風水で用いられる「卦」(ke : 易で算木に現れる種々の象 (Katachi) のことで人生や事柄の吉凶を占う根拠となるもの) を構成する記号のこと。爻(こう)には陽爻と陰爻があり、この陰陽の爻三つで導かれる指針を「八卦」と言い、六つで六十四卦(大成卦)が構成されています。爻(koh) は筮竹(zei chiku) やコインなどを用いて出されるのが一般的で、現代でも多くの人々によって利用されています。よく言われる「当たるも八卦、当たらぬも八卦」と言うのはこの事です。

※神仏の存在を知ってかしらずか、温かい小春日和の陽だまりの中で未来を見つめる筆者の愛犬「茶々丸」。NHKの取材で、颯爽と元町を闊歩していた昔を思い出しているのだろうか。16歳と6ヶ月のクリスマスを元気に迎える。

さて、物事を占う際には、前述の筮竹(zei chiku)という35cmから55cm程度の50本の竹ひごのようなものが必要になるわけですが、何も無い牢屋のこと、牢名主が死罪執行に赴く男たちへの手向けとして贈っていたコヨリの数珠(jyuzu)がヒントになり、嘉兵衛はコヨリで50本の筮竹を作ると、早速、同房の男たちの過去を根気よく占う作業を開始しました。これが、当たる…当たる...大当たり。皆が驚くその分析力と過去の状況再現に牢内は騒然とします。

中には、「神様と仏様が天から降りてきた」とひれ伏す者も居て、苦笑をこらえながらも、その集中力を維持して、一人一人の卦をたてる嘉兵衛でした。

嘉兵衛による鑑定の実習材料になる囚人たちは、皆、様々な災難や数奇な運命を辿って来たがゆえに投獄されているわけですから、そんな同宿の彼等こそ格好の占易実験材料に違いなく、嘉兵衛が持っていた天性の集中力と予知能力が加味された結果、後に易聖とまで賞賛される実力を身つけたのは、実に、この伝馬町の牢獄での日々の精進のおかげでした。

そもそも、この易経という書物自体が、周の文王が獄舎でまとめあげたものを後に孔子が編纂し直したものだと言われており、嘉兵衛も獄舎という同じ環境下での易経の学習という縁は不思議な気分になります。 後年、日本の易聖・高島嘉右衛門として、多くの政府高官や後世に名をなす友人知人に指路を与えるまでになる嘉兵衛に与えられた獄舎という環境、、それは見えない誰かに導かれたような、何か因縁めいた巡り合わせでした。

※嘉兵衛(高島嘉右衛門)が苦境のどん底にあった折、江戸上屋敷に在勤の佐賀鍋島藩家老・田中善右衛門の好意で開店した『肥前屋』があったご近所に佇む「ジャックの塔」こと『横浜市開港記念会館』。人の盛衰、ヨコハマの発展を今日も見守っている。この善右衛門氏の縁戚の松永様からお便りを頂いた。COVID-19禍が落ち着き次第、佐賀城本丸歴史館へ赴く事を楽しみにしている昨今の筆者であります。

さて、嘉兵衛としてはこれまでにない安泰な日々を得たようなこの浅草の牢は伝馬町の牢よりも少し大きく、120人ばかりが入牢しており、その中で重罪犯は70人にも及ぶ危険極まりない場所でした。その彼らのほとんどは、この牢屋が終の住処(tsui no sumika)であり、その最後の日が明日にも来るかもしれないという異常な緊張の中に居たわけですから、一触即発で何が起こってもおかしくない状況でした。

そんなある日、その中の主だった4人が、嘉兵衛の座所にそっと近寄って来て声をひそめて囁いた事は、思いもかけない計画ごとの相談でした、、。(続く)

Tommy T. Ishiyama

 

 

 

 

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