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*本コンテンツは、これまで元町公式メールマガジンにて配信しておりましたコラムです。

2022年(令和4年)2月5日号 元町コラム 
横浜開港200年/Y200(2059年)を夢みて!

【特集】 行く川の流れは絶えずして、、その64
                 〜 高島嘉右衛門さんのこと 〜(41)       

   諸システム改善の為、12月5日号の投稿以降、12月20日、1月5日、同20日の各号を休稿させて頂きました。お問い合わせを頂いた多くの皆様をはじめ、ご心配をおかけした皆様に心より感謝とお詫びを申し上げます。

     2004年にスタートした「元町コラム」も、おかげさまで早くも18年目を迎えるに至りました。今後、季節感あふれる初期のアーカイブも「あの日に帰ろう」シリーズで不定期ながらご覧頂ける機会を設ける所存でございますので、本年もどうぞ宜しくお願い申し上げます。石山利幸

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     横浜、山手の丘から望む新春の富士山。

     外国人墓地に眠る人々と共に眺める現代の富士の勇姿は、そこに有史以前からの過去・現在・未来が同居して存在している様に思えて、鎮(sizu)かに目を閉じる今、澄んだ空気の彼方からいつの時代なのか、人間が生活を営む騒めきも聴こえて来そうで、何故か懐かしい想いが湧き上がって参ります。

※ 横浜山手、外国人墓地より、、入口のテラスから眺める今日の富士山ーーー。

※ 先人たちへの想いは時代を越えて。
真冬の花一輪の鮮やかさに昔を偲ぶーーー。   

     遠い時代に想いを馳せて目を凝らすと、港の沖にはカモメが群れ、整備された大通りを馬車が忙しく行き交い、そして港の主役、外国人商館主や豪商たちに混ざって羽織姿の多くの役人達が忙しそうに動き回っている姿がぼんやりと浮かんで参ります。思えば、開港したとはいえ、まだまだ鄙(hina)びた漁村そのままのヨコハマ。正式には武蔵国久良岐(kuraki)郡横濱村と呼ばれ、その「久良岐郡」の名は遠く7世紀の後半には既に見られるし、名の基となった最古の地名「倉樔」(kurasu)は『日本書紀』にも登場しています。

     庶民の遊びや生活は豊かで、小さな帆掛け舟で沖に出ては豊饒な海で漁業を営み、浜では底引き網でカレイ、イカ、アナゴが豊漁。磯ではカニやシャコ、それにサザエやアワビが毎日籠いっぱいに取り放題。千葉は舟で出かける格好の遊び場だったし、富津や木更津はチョット前のヨコハマの粋な遊び場だった本牧のような存在でした。近代になり横浜の海岸が埋め立てられるまで、根岸や本牧、富岡といった海辺の町の祭や風習には千葉のそれと似通ったものが多かったという史実に容易に頷くことが出来ます。

     そんな長閑な時代を一変させて、入り海だった「野毛の浦」や「袖ヶ浦」が埋め立てられ、日本で最初の蒸気機関車が力強く走りだすと、時代は明治の世に一足飛び。遠いようで近いような、それでいて、まるで別次元のような幕末・明治期は 一番身近な先人たちが生きて暮らした超近代的でリアルな世界でした。

     思うに、いつの世にも時代を代表する偉人が存在し、ドラマや小説の主人公として現世に生き返る者もいれば、そのまま時代の彼方に取り残されて、いつの日か誰かに発掘されるまで静かな眠りの日々を送る者もいて、時間だけが通り過ぎて行きます。

     そんな今日、あらためて高島嘉右衛門のビジネススタイルを考えると、彼は典型的なワンマン経営者だったことが解ります。易断を駆使しながら独自の交友関係を築き上げ、幾多の実力者たちの知己(chiki)を得て、明治期の様々なビジネスに参画するや、事を成就させても後継者の育成をする事なく、自らが仕切り、責任を取る姿勢を貫いた典型的な孤高の経営者でした。

     同じワンマン経営者だった岩崎弥太郎と似たようなビジネスチャンスをつかみながら、嘉右衛門自身が全く対照的な人生を歩んだ事にひたすら魅力を感ずる筆者ですが、高島嘉右衛門の心情を察するに、確固たる信念を抱いた後にそのビジネスに邁進するというより、日々、自らが打ち込むべきものを探しながら、その場その場で得た事業チャンスを完遂する事で自らの信念を貫いて来た嘉右衛門に、一層、心酔する昨今です。

     その意味では、婚族にあたる総理大臣・伊藤博文の汚れ役を嘉右衛門自身が相当な部分で担っていた事は容易に想像できるものの、表立った資料が見当たらないなど、幕末明治はまだまだ謎だらけの時代であると言い切ることが出来ます。

 

※ 昨年12月の高輪「泉岳寺」。賑やかな墓参客で大混雑の赤穂浪士の墓所の入口、人知れず佇む高島嘉右衛門の墓。戒名「大觀院神易呑象居士」の中に勝海舟から薦められたお気に入りの易号「呑象」の文字が刻み込まれているーーー。

      昨年末、嘉右衛門が生まれ育った江戸三十間堀の当時を偲びながら、京橋から銀座界隈を散策し、嘉右衛門さんの墓前でお参りをと高輪の泉岳寺まで足を延ばした折、12月ということもあって大勢の皆さんが赤穂四十七士のお参りに訪れていました。

     その赤穂の浪士たちが押し入った「吉良上野介義央」(Kira Kouzukenosuke Yoshihisa)の本所松坂の屋敷から至近の場所に勝海舟の生誕の地があって、嘉右衛門が勝との交流の傍ら赤穂浪士の供養で泉岳寺を訪れた際には必ず本所松坂まで足を延ばして昔を偲んでいたという事実に、江戸っ子としての嘉右衛門の一面を見た思いが致します。

     べらんめい口調の勝海舟と嘉右衛門とは実に気が合い、相互に助け合う仲だったわけですが、嘉右衛門の横浜埋め立て工事を始め横浜港の築港に延べ15万余人の職が無かった多くの旧武士たちを斡旋するのにひと役もふた役も買って出たのが勝海舟でした。そんな勝が馴染みの高島屋に宿泊し、名易断家として尊敬する嘉右衛門と会食の折に「呑象」(Don Sho)の易号を名乗るように薦めた話は有名ですが、咄嗟に嘉右衛門が「どう(ん)しようかいのう?」とシャレで答えたという逸話にも2人の信頼関係の深さを感じます。

     高島嘉右衛門は大正3年に亡くなりますが、彼はビジネスと同様に易に関しても公式に後継者を指名する事はありませんでした。理由は簡単で、占いを生業(nariwai)としていなかったからですが、その為に、死後、「高島易断」を名乗る占い師が大勢現れました。自身の門弟によって嘉右衛門の占いは現在も引き継がれてはいるものの嘉右衛門とは全く関係ない者まで「高島易断」を名乗り、平成の時代になって登録商標の裁判がありましたが、すでに「高島易断」自体が一般名詞化しているとして棄却された事実があり、嘉右衛門とは無関係な存在の者たちによって「高島」の名が広められているという皮肉な結果となっています。(続く、、)

Tommy T. Ishiyama

     

   

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