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*本コンテンツは、これまで元町公式メールマガジンにて配信しておりましたコラムです。

2021年(令和3年)3月5日号 元町コラム
横浜開港200年〜Y200(2059年)を夢みて!

【特集】 行く川の流れは絶えずして、、、その45
〜高島嘉右衛門さんの事 その(22) 〜

 記録によれば、入牢から満5年を経た1865年(慶応元年)10月、33歳となった嘉兵衛が2度の牢替えを経てたどり着いた流刑地の佃島から赦免され、真っ先に向かった先は八丁堀にある高島平兵衛の店でした。

実直そのものの平兵衛は嘉兵衛の娘婿で、嘉兵衛が投獄された後は毎月欠かさず3回の差し入れを継続したほか、その母と妻を引き取って面倒を見続けていたのです。嘉兵衛は、平兵衛にこれまでの礼を熱く述べ、今は亡き最愛の二人の位牌に深く手を合わせると、新たに「高島嘉右衛門」を名乗ることを報告して再起を誓ったのです。

※初代広重筆『神奈川台石崎楼上十五景一望之図』(横浜市中央図書館所蔵)
放免された嘉兵衛(高島嘉右衛門)が目指した横濱・神奈川。
中央右奥に広がるのが野毛の浦と袖ヶ浦。入江の入り口中央辺りが
現在の横浜駅や西口一帯にあたる。右側のクリフ(切り立った崖)沿
いに下り始める坂の途中付近が現在の青木橋。続いて、浅間下から
保土ヶ谷、現在の天王町付近まで浅瀬が続いている美しいラグーン
は、旅人のみならず、横濱を訪れた外国人たちの感嘆を誘ったーー。

「江戸払い」という条件付きの放免だった嘉右衛門は、新築の家の使用を勧める平兵衛の有難い申し出に、その日の内に江戸を離れなければならない旨を説明して辞すると先を急ぎます。目的は、馴染みだった店や縁故を駆使して、今後の活動にひと役かってもらう事で、まず、最初に目指したのは品川宿でした。

「鶴巻屋」は、その行き届いた佇まいと名物の料理が評判の旅籠(Hatago)で、品川宿での定宿として利用していた嘉右衛門の楽しみのひとつに名物の鰻料理がありました。馴染みだった主人の伝助は健在ながら、いつも嘉右衛門の遊山の折に、自ら竃(Kamado)で絶品の米飯を炊き上げて供してくれた大女将はすでに亡く、ここでも仏壇に線香を手向ける嘉右衛門でした。

 そんな品川宿は、近世初頭から東海道第一の宿場として栄え、商品の流通も早くから活発な地でした。東海道を行き来する旅人のために旅籠屋が整えられると、やがて、現代のテラス喫茶店とも言うべき水茶屋が店を開き、江戸市中からの遊山客も増えた結果、土産物や生活に必要な品々を扱う商人が急増し、興隆を誇っていました。天保14年(1843年)の調べでは、商いを営む店が31の業種別に601軒あり、なかでも一番多いのが旅籠屋で111軒、次に水茶屋が64軒と続き、質屋も40軒あって、品川宿の質屋には本陣への夜具を差し出す義務があったほか、質屋株には、夜具・蒲団類を旅籠屋などに賃貸し出来る権利が付記されていました。

生活必需品を商う店も多岐にわたり、江戸市中と変わらないその賑やかさは開港してスグの横濱の発展を嘉右衛門に予感させるには充分でした。そんな多種にわたる商いの中で、品川宿の米屋について調べてみると、江戸の庶民が主食として白米を食べることが一般的になったのは江戸中期頃からのことで、品川宿の米屋は天保14年の調べでは25軒存在しており、その米屋は二つの業種に分かれていて、ひとつは問屋から玄米を仕入れて白米に精米して小売りすることを業(Nariwai)とする舂米屋(Tsuki-gome-ya)と、もうひとつは、舂屋(Tsuki-ya / 米舂屋・Kome-Tsuki-ya)という、近在の家に玄米を舂きに行く米舂人足の手配を行う商人たちでした。

品川宿の米屋が商う玄米が、すべて御府内の問屋からの仕入れになったのは文政13年(1830年)以降のことで、それまでは近在から海上や陸上を運ばれてくる米を直接買って小売りすることができましたが、しかし、御府内の芝金杉の問屋から「入荷が減少し問屋が立ち行かなくなるので直接買うのはやめて欲しい」との訴えが出て、和解が成立した結果、千住宿や内藤新宿などと同様に、品川宿でも米の仕入れはすべて、江戸市中に散在し関東・奥州の米を引き受けた「地廻り米穀問屋」から、ということになったのです。この「地廻り米穀問屋」の「地廻り」とは、上方から江戸へ送られてくる商品を「下り荷物」と呼んだのに対して、江戸近国から江戸へ入ってくる荷物を「地廻り荷物」と呼んだことに由来しています。

「今更、米屋でもあるまい」と、嘉右衛門は牢の中であれこれ考えを巡らせながら横浜でのビジネスに想いを馳せていたわけですが、昔の馴染みの店との再会を果たすと、早速、今後の協力要請を実行に移します。

嘉右衛門からの申し出に快く了承したその約束とは、今後の利用に際して発生した代金の支払いは「3年後の出世払い」というもので、それは、品川の鶴巻屋を後に、その足で向かった川崎での定宿、丹波屋でもまた同じように交渉を繰り返し、嘉右衛門のこれまでの実力と信用が物を言って、皆、快く承諾してくれたのでした。

その夜は、早速、丹波屋に泊めてもらうことになった嘉右衛門ですが、出獄の当日に、気合いばかりでなく、早くも緻密な段取りで行動を開始したのはさすがでした。

※「図説横浜の歴史」より(平成元年/1989 横浜市市民局発行)。
嘉兵衛(後の高島嘉右衛門)が収監される2年前、開港直前の
安政5(1858)の横濱周辺の図。後年、嘉右衛門によって
埋め立てられることになる神奈川宿(図右下付近)から開港場
となる洲干島(現在の関内・馬車道方面)へ、海の中道の様に
左にカーブさせる事になる汽車道や、海沿いに埋め立てが実
施される横浜道はまだ存在していない。現在の横浜駅や西口
の繁華街一帯も全て海の真ん中、通称、野毛の浦に位置して
おり、現在の横浜スタジアムの一帯は「一ツ目沼」の表示が
あるエリア、また、中華街は全て「太田屋新田」として、後
に埋め立てられる事になる沼の中に位置していた事になる。
ちなみに、図にある「弁天社」は、現在の馬車道勝烈庵の脇
にある「六道の辻」を真っ直ぐに行って本町通に突き当たる
辺りに存在し、「弁天通り」にその名を残しているーー。

さて、川崎宿・丹波屋で、久しぶりに手足を伸ばして一夜をゆっくりと過ごした嘉右衛門が目覚めると、外はすでに日が昇り再起の船出を祝福するような日本晴れの青い空が大きく広がっていました。大きく柏手を2度打って、希望の朝日に拝礼した高島嘉右衛門は、一夜の礼も早々に好天に胸を躍らせながら足を速めて、神奈川、戸部坂(通称、くらやみ坂) へとやって来くると、その眼下には、見事な程に一変した横濱の町が大きく広がっていました。

過ぎし日、佐賀藩の好意で肥前屋を本町通に開店する際にも同じ場所から横濱を見渡したことのある嘉右衛門は、驚きとともに「わずか6、7年で、、町とはこんなにも変わるものなのか、浦島太郎とは今の某(sore gashi)のことに違いない」と呟き、更に目を凝らすと、以前は漁村に毛の生えた程度の家しかなかった横濱が、今では江戸にもない洋館が外人居留地
を中心に建ち並び、中でも目に映ったのは港の入り口、居留地壱番という一等地に白く輝く商館・ジャーディンマセソン商会の建物でした。

見渡せる一帯の民家もかなりの数を増して、新しい港町としての横濱の賑わいがハッキリと目に飛び込むや、ハッと気持ちを切り替えて商売の感が蘇ってくる実感を覚えた嘉右衛門でした。

※くらやみ坂近影ーー。
願成寺を右に、西前商店街から来て登りきった先、
伊勢山、紅葉坂を下って近代横浜の象徴「MM地区」へーー。

筆者も夏の夕涼みに愛犬とよく訪れた「くらやみ坂」は、近隣に願成寺(Ganjyo-ji)がある関係で、毎年、6月から8月までの3ヶ月間、4のつく日に縁日が開催されていて、旧保土ヶ谷道に位置する藤棚町交差点から西前町に続く商店街には多くの屋台が並び、家族連れで賑わうのが風物詩となっています。

馴染み深い、この 「くらやみ坂」の名は、東京電力の送電線にある名称板には「鞍止坂」とあり、この坂からの入り江の景観があまりにも美しく、通りかかった「源頼朝も馬(鞍)を止めて眺めた」事に由来する「クラヤミザカ」のほか、急坂であったために「人々は馬を止めながら登った」、また、神奈川奉行所の刑場があり「木々に覆われて薄暗かった」から「暗闇坂」と、現在でも諸説賑やかです。

横浜の変貌ぶりを驚きのあまり棒立ちで凝視していた嘉右衛門には、あるビジネスの構図がすでにハッキリと頭の中にインプットされていた事は確かでした。(続く、、)

Tommy T. Ishiyama

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