• facebook
  • twitter
  • instagram
  • youtube

2023年(令和5年)3月5日号 元町コラム
横浜開港200年 / Y200(2059年)を夢みて!

【特集】心安らかに人生を見つめ直す旅への誘(izana)い〜(4)

     心も弾む令和5年3月弥生の横浜。 珍しく春の霞に煙ること無く、半分だけ晴れ渡った大空と雲の境を切り分けるようにひと筋の飛行機雲が流れて行きます。

     そんな今朝、昔の横濱を眺めたくなった時に必ず訪れる「元町百段公園」を覗くと、時代が織りなす時空の中にいつものように佇みながらも、ただ、大きく膨らんだ桜の蕾だけが未来への時を刻んでいました。

     この公園に昔を感ずるのは、多くの先人たちが訪れた息吹をそこに実感出来るからですが、目を閉じて静寂な時間が流れていた時代へのタイムスリップを試みると、西暦1900年(明治33年)3月5日の今日は月曜日。 前日の4日が日曜日で大安だった事から、多くの参詣者が元町百段を登り、浅間神社への参拝を済ませて、見晴らしの良い「浅間山茶店」(Sengen-Yama Cha-Mise)に足を運んで大繁盛。 なのに、一転して月曜日の今朝はひっそり。

     折しも、再来日を果たして気の向くままに横浜に滞在していた英国人の博物学者、資産家で旅行家のリチャード・ゴードン・スミス(Richard Gordon Smith、1858年〜1918年11月6日)が、自らチャーターしている蒸気船ロヒラ号のキャプテン、ロッキャーを伴って茶店の客となっていました。

※ 横濱を一望の人気の茶店。 浅間神社はかつて旧横浜村の海辺にあった厳島神社の末社だった。 1859年の横浜開港後の整備に伴い、住民が本村(元町)に移った1860年(万延元年)に山手の丘の上に移された際に運上所御用船の船頭だった勘次郎が元町の前田橋のたもとから浅間神社にまっすぐ登る石段を参道として寄進した。 石段が101段あった事に由来して「百段坂」または「元町百段」と呼ばれ、丘の上には浅間神社のほか、港を一望できる見晴台や茶屋(写真右側の家屋)が設けられて親しまれていたーーー。

※ 最上部に浅間神社の鳥居が見える元町百段は居留地の外国人たちも多く訪れた人気の観光スポットだったが、1923年9月1日の関東大震災で石段が崩落し、丘の下にあった元町の数十軒の家屋を押し潰すなど多くの犠牲者を出した。 その後石段が再建されることはなかったが、百段を偲び、浅間神社跡に「元町百段公園」が完成したのは1987年(昭和62年)のことだったーーー。

     茶屋の女主人の名は「おユキさん」。 お世話係の若い娘たちに小部屋に案内された英国人二人が感激して顔を見合わせたのは、小走りに走って行った娘たちが真っ赤に焼けた炭を持って戻り、 暖をとらせようと火鉢を体裁よく整えたその手際の良さと、丁寧に縫われた文様の美しい刺し子の布を二人の両手に掛け、その上から手を揉みしだくように保温に配慮してくれたことでした。

     やがて女将が年齢を感じさせないしなやかな物腰でお茶と名物のワラビ餅を運んで来ると、日本式の丁寧な挨拶を述べながら両手を揃えて畳の上に置き、深々と一礼を済ませると、微笑みながら差し出したのは2冊の分厚く膨らんだノートでした。

     見ると芳名録のようでもあり、外国人には到底判読不能な見事な筆致で書かれた絵画のように美しい日本文字のページに混ざって、プロシア(プロイセンとも呼ばれた北東ヨーロッパの歴史的地名でドイツ帝国建設の中核となった王国のこと)のヘンリー王子や、ジャーディンマセソン商会の幹部達のサインと共に茶店を讃えるメモ書きが沢山添えられており、ぺージをめくりながら二人は納得したように再び頷き合うのでした。

     ジャーディンマセソン商会とは横浜開港と同時に乗り込んで来た東インド会社に端を発する英国商社で、当時の横濱では「英一番館」の名で知れ渡っていました。 愛称の由来となった居留地の地番「壱番」を真っ先に手に入れて拠点とし、既に権勢を奮っていた同社は英国政府の外務省的な役割を自負して日本の文明開化の先頭に立って多岐に関わって行く事になるわけですが、ビジネスと相まって、ひときわ目立つ白亜の洋館が浅間山からも一望出来て、横濱のランドマーク的存在としても有名でした。

※ 「史跡 英一番館跡」の記念碑が誇らしく佇む横浜大桟橋入り口の一等地の現在、シルクセンターが建つ英一番館の跡地。 筆者も永年在籍したジャーディンマセソン社の存在は、近い将来、今後の横浜史の中で、もっともっと重要な位置付けになって行く事をここに予言しておこうーーー。

     このジャーディンマセソンという商社の存在は、横浜にあの坂本龍馬(本名 才谷梅太郎 / Saidani Umetaro)が訪れるキッカケになった事や、長崎のグラバー邸で有名なトーマス・B・グラバーの在籍をはじめ、若き日の伊藤博文等の長州の若者5人(Choshu-Five) や五代友厚等の薩摩の若者15人を自社の船で密出国させ、ロンドンに留学させるに至る立役者として暗躍したほか、現在も香港の一等地、セントラル(中環)の Head Quarter、ジャーディンハウス(中国語では「怡和大廈」)からコングロマリットとして世界に君臨しているわけですが、それらは全てこの横浜からスタートしているという事実を記憶しておいて頂きたいと思います。

     ジャーディンマセソン商会の総師、ウィリアム・ケズウィック(Sir William Keswick 1834〜1912)と共に、初めて浅間山を訪れた名もなき青年、才谷梅太郎(坂本龍馬直柔、Sakamoto no Ryoma Naonari、天保6年11月15日〈1836年 1月3日〉〜 慶応3年11月15日〈1867年 12月10日〉)の不慮の死から三十三回忌を迎える年の早春、鎮かな時が流れていた横濱の朝のワンシーンをお届け致しました。

Tommy T. Ishiyama

   

follow

ページの先頭へ