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*本コンテンツは、これまで元町公式メールマガジンにて配信しておりましたコラムです。

2021年(令和3年)4月20日号 元町コラム
横浜開港200年〜Y200(2059年)を夢みて!

【特集】 行く川の流れは絶えずして、、その48               
  〜高島嘉右衛門さんのこと その(25)〜

   高島嘉右衛門が目論む英語に堪能な人物が果たして横浜に居るのかどうか、そして、今、彼が考えているビジネスの未来に勝算があるや否や。その方向性だけでも見出そうと占いの準備を整えて久しぶりの瞑想していると、何故か熱い空気が下から立ち昇って来るのを感じる嘉右衛門でした。

     易占いに関して、既に名人と呼ばれてもおかしくない領域に達していた嘉右衛門には信条があって、それは「卦というのは二度も三度も立てるものではない」というものでした。つまり、最初に出た卦が全てであり、もし、それがとんでも無く予測とはかけ離れたような卦であった場合は、ひとまず無に帰り、新たな気持ちになってから再び卦を立て直すことを常としていました。

     嘉右衛門手製の50本の筮竹は(Zei chiku)長さ50cm、両手で天策と地策に分ける動作の際に扇形に開きやすいように手元をやや細く削ってあり、磨かれた巧みな仕草で、最初に横浜で得た卦の結果は「水風井 二爻(Suifusei Nikou)」という、一見、何の変哲も無い卦でした。並の易者なら普通に解釈して、〜水は湧き出ているが小魚(鮒 Funa)に絶え間なく注いでいるだけ、そして、井戸の釣瓶(Tsurube)は壊れていて使いものにならない〜などと読み解くところですが、嘉右衛門が分析して得た解釈は、「泉が尽きることなく湧き出ているので、その水の恵みを求めてやってくる者が必ず居る」というもので、加えて「自ら水を運べない状況故に、求める者が向こうからやってくる」と言うものでした。

     高島嘉右衛門と易教は、終生、切っても切れない絆になるわけですが、伝馬町の牢屋での暴動を易占で予見したり、勉強や実践の努力は努力として、元来、持って生まれた先見性の豊かさや、分析力の鋭さが5年の牢生活の中で研ぎ澄まされていた事は確かで、後年、歴史上の幾多の人物をはじめ、親交のあった江藤新平や親友だった伊藤博文等の不慮の死は、彼らが嘉右衛門の必死な制止の言葉に従ってさえいれば結果的に難を逃れることが出来たわけですが、平素から生死をかけて目的を遂行するのが常だった彼らは、嘉右衛門の易占を信ずればこそ、死地に望む一層の覚悟で自らの道を選択した事は尊いと思わざるを得ません。

     同様に、嘉右衛門が易断する事になる西郷隆盛の下野と西南の役しかり、また、日本が軍資金という投資を得て突き進んだ日清日露戦争の開戦しかり、そんな幕末から明治にかけての、嘉右衛門による幾多の易占の分析結果は膨大な資料として残されていますので、ここでは以下のみを記すに留めておくことと致します。

     易者の世界における「高島」という名跡に関する問題が、時代時代で常に噴出するわけですが、易占とビジネスに一線を画していた高島嘉右衛門は、占いによる金銭の授受を一切拒否していた事に加えて、嘉右衛門の門下で高島姓を名乗る事を許可された者はひとりも存在していない事実があることを、ここに明記しておきます。

※函館山の丘陵に毅然と佇む函館市重要文化財「旧函館区公会堂」。
明治43年に建てられた洋風建築の代表的建造物。内部は気品溢れる華やかな雰囲気の家具や調度品が配置されており、国の重要文化財に指定されたのは昭和49年。高島嘉右衛門が横浜港と函館港を結ぶ初の定期航路を開いたのは1874年(明治7年)。嘉右衛門はこの公会堂に、後年、複数回訪れることになるが、北海道の他の地にも高島嘉右衛門の足跡は多い。2006年(平成18年)4月に廃線となった「北海道ちほく高原鉄道ふるさと銀河線」に「高島駅」があった。この「高島駅」は、横浜市西区にある「高島駅」と同様、高島嘉右衛門に因んで名付けられた駅名で、順番としては1910年(明治43年)9月22日、日本国有鉄道網走線の駅として開業した「高島駅」の方が早く、歴史ある駅であった。皮肉な事に旧東急東横線高島駅(後に高島町駅)も2004年3月に廃止されているが、函館に縁のある筆者としては北海道の「高島駅」は廃止される前に一度訪れたい場所であったが、残念ながらその予定は叶わなかったーーー。

     さて、時代は「明治」の元号に変わる寸前の1860年代の半ば、英語が堪能なビジネスパートナーを探していた嘉右衛門の耳に、ひとりの天才少年の噂が飛び込んで来ました。「ハマの逸材」との異名を持つその少年は横山孫一郎という荒物屋の息子で、17歳という若者ながら語学に長け、外国人たちとも流暢な会話で対等な付き合いをしている事で有名でした。

     急ぎ、噂の荒物屋を訪ねた嘉右衛門が孫一郎に会った時の第一印象は、『色は浅黒くて背も低く、はっきり言ってなんとも風采の上がらない少年で、加えて人を食ったような小生意気なところが鼻に付く若者だった』との記録がありますが、目の鋭さに気が付いた嘉右衛門が気を取り直して人相学的にも観察すると、耳に不思議なツヤが現れており、大きくバランスの良い福相で、嘉右衛門は期待以上の人物に出会えた事に、一気に未来が開けた気分でした。

     人間の目と耳の位置と、そのバランスや能力の良さは、何事に対しても的確な判断力を要していることの必須条件ですが、この孫一郎の場合は、咄嗟の機転も働くし、目も耳も鋭敏な様相を呈している事から、それ相応の能力を備えている事は確かで、噂の英会話能力も期待以上のものがある事を直感した嘉右衛門は、単刀直入に、自分専用の通訳担当として採用したい旨と給料の希望額を問うと、孫一郎は彼独特の生意気な口調で、年に500両と仕事がない時の賭博場への出入りの自由を要求したのでした。

     ちなみに、500両を現代価格に換算するには、米価基準で算出するにしても相場の予測に無理があって難しいところですが、「幕末期の1両は5万円とも数千円程度」との記録もあり、飢饉での米価の瞬間的な暴騰や地域性も加味して換算すると、嘉右衛門が提示した給料としての当時の500両は、今様の常識で言えば単純に「500万円から1千万円弱程度」と述べるに止めておくことに致しますが、何れにしても、超破格のオファーを嘉右衛門は提示したのでした。

      余談ながら、今年、2021年のNHKの大河ドラマで渋沢栄一が父の代理で岡部藩陣屋に行き、御用金を言い渡されたのが、少々、時代を遡る1856年(安政3年)のことですので、「青天を衝け」のあの場面に関して言うならば、その当時は「1両=5万円から10万円程度」が相場ですので、渋沢家が命じられた500両は1両=5万円として「2千500万円」、1両=10万円とすると「5千万円」という高額の要求だったわけですから、若き日の栄一の納得出来ない悔しい思いが伝わって参りますが、嘉右衛門が、この8歳年下の渋沢栄一と横浜で出会うことになるはもう少し時代が進んでからの事になります。

      孫一郎が嘉右衛門に法外な金額を要求をしたのは、単純に、面倒臭そうな仕事の話から逃げたかったからですが、間髪を入れずに嘉右衛門が口に出した答えは、500両の条件の了承に加えて、実績によっては更に年間500両を上乗せし、仕事に影響が無ければ博打だろうが何だろうが自由にして良いと言うものでした。仕事を無難にこなせば年間千両、しかも時間さえ作れれば行動は自由と聞いてキョトンとした顔の孫一郎には断る理由が他にある筈もなく、翌日早々に嘉右衛門の高島材木店に顔を出すと、満面の笑みで出迎えた嘉右衛門はかねてより思案していた横浜に居住する外国人の人脈を調査するように命じました。

     孫一郎が嘉右衛門と行動を開始する6年前、横浜開港の1859年(安政5年)当時、来日した外国人は付近の寺院や民家などを仮住まいとして利用するのが常で、やがて、居留地の整備が進み、商館や倉庫、住宅などが建ち始めるわけですが、その初期段階の代表的な建築物が令和の現在でも各地に残っており、長崎で1863年(文久3年)に建てられた木造平屋、日本瓦葺きのおしゃれなグラバー邸こそ代表的な実物のサンプルに他なりません。

※私ごとながら、元町ショッピングストリートでの早春のある朝、、遠い時代に想いを馳せる筆者。縁あって、ジャーディンマセソン社に在籍したのは1986年(昭和61年)から、担当ブランドと共に伊藤忠商事に移籍する前年の1994年(平成6年)末まで。それ以前は、やはり横浜に縁がある最古のスイス商社、シイベルブレンワルド商会に端を発するシイベルヘグナー社でした。そんな横浜開港に由来する各社や元町にご縁を頂くことが出来たのも、明治4年から横浜の地に住み生きた先代3代の賜物と心から感謝している今日この頃ですーーー。

     さて、ジャーディンマセソン社の遠い遠い先輩にあたるトーマス B. グラバーは、ジャーディンマセソン商会の社員として1859年(安政6年)に開港直後の長崎に来日すると、同社からの援助と融資を受けてグラバー商会を設立し、後年、坂本龍馬(坂本直柔=JM社の記録では才谷梅太郎の記載)を擁して、幕末から明治を一気に駆け抜けたスコットランド生まれの貿易商でした。やがて、ジャーディンをメインに他の外国商館の長崎代理人を勤めることになるわけですが、グラバー邸の建築に際しては、 間取り図や寸法、室内の仕上げなど、グラバー自身の希望に基づいて地元の日本人棟梁が工夫を凝らした建てた家屋で、近年になって秘密の隠し部屋の存在が判明するなど人気の長崎観光名所となっています。

     天才少年孫一郎のツテで、嘉右衛門が最初に出会うことになったアメリカ人の建築家ビジンは異人館の設計建築では横浜で一番の腕前と言われていた人物でした。唯一の問題は日本人の大工や請負師が、彼の指示どおりの工事ができないことでしたが、元々の原因は言葉が通じない為の誤解にあることは嘉右衛門には一目瞭然でした。そのヒジンの妻の縁故から、横浜の外国人居留地で権勢を振るっていた英国公使、ハリーパークスをターゲットとした活動が開始されることになるわけですから、嘉右衛門にとって、孫一郎に約束した年間500両や1000両の手当ては充分に採算の取れる金額だったのです。(続く、、)

Tommy T. Ishiyama

 

 

 

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