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*本コンテンツは、これまで元町公式メールマガジンにて配信しておりましたコラムです。

2021年(令和3年)8月5日号 元町コラム
横浜開港200年〜Y200(2059年)を夢みて!

【特集】 行く川の流れは絶えずして、、その55
                  〜高島嘉右衛門さんのこと その(32) 

  明治新政府が掲げた「富国強兵」(Fukoku-Kyohei)とは、豊かな国を作り、強い軍隊を保持すること。そして、「殖産興業」(Shokusan-Kogyoh)は、多くの工場を創設して産業を活発化させ、国民総生産レベルを引き上げる事を意味しています。

  その原動力となったのは、旧幕府や大名らが経営していた鉱山・炭鉱・工業でした。それらをもぎ取る様に引き継いだ新政府は新たな設備投資を実施すると共に、多くの若者を海外に派遣して技術やシステムを学ばせたり、超高額賃金で、後世に名を残す事になる多くのお雇い外国人技師を日本に招いたのです。

      加えて、官営工場を新設し、特に、軍事産業と製糸などの輸出産業に重点をおくなど、農業国から工業国への転換が開始された日本ですが、交通の近代化が最優先と考えていた欧米の産業構造はすでに鉄道の時代に突入しており、数十年の遅れを取っていた明治の日本にもかすかな汽笛の音が響いて来そうな気配がやっと生まれ出した刹那(Setsuna)でした。

※日本に初めて敷設されることになる鉄道、その第1号横浜駅だったのが現在の桜木町駅。世界への表玄関だった。新南口に直結している駅ビル「JR桜木町ビル」の各種展示物に明治を偲ぶことが出来るーーー。

※復元展示された110形蒸気機関車。展示の機関車は、1872年の鉄道創業時にイギリスから輸入された実物の蒸気機関車で、「10号機関車」として新橋~横浜間で使用された日本で最も古い機関車だーーー。

※赤く輝く明治の遠方信号機。夜の桜木町駅、「10号蒸気機関車」が明治へのタイムマシンのようにそこに存在しているーーー。

  鉄道敷設事業が頭から離れる事が無かった嘉右衛門は、話を持ち込んだ大隈重信と伊藤博文の顔色からその可能性を見出すと、早速、得意の易を立ててその可能性を占いました。出た卦は「火天大有」(かてん たいゆう)の「二爻」(にこう)というもので、その暗示が意味するものは「大車以って載す。往くところ有り。咎なし。」、つまり、天高く燃える太陽が万物を照らしている様子を意味すると同時に、背負うものは大きいが、それは成就(成功)出来るはずのもの、、という願ってもない理想の卦でした。その結果、嘉右衛門は「4年以内に鉄道は必ず開通する」と読み切ったのです。

     先が見えたら、直ぐに行動に移すのが嘉右衛門の性分でしたが、今回は冷静に、まず、この鉄道敷設という理想を如何に現実のものにするかに精神を研ぎ澄ませたのです。それは、工事内容を熟慮した結果、普通の事業ではない事に加えて、鉄道敷設には膨大な資金を要することを早くから察知していたからに他なりません。

     嘉右衛門は、最低「100 万ドル」という莫大な資金の調達法を模索すると、その対象を外国人に求めるべく奔走を開始しました。その先頭には、これまで通訳として嘉右衛門と一心同体だった、あの横山孫一郎に加えて、富永という部下も通訳兼ブレーンとして加わっており、この2人を通じて、居留地二十番館のホテルに滞在中だったリードというイギリス人の存在が浮かび上がると、100万ドルの融資の担保として、政府から発効される「鉄道敷設免状」によって、3ヵ年の据え置き後、4年目以降から元利を10年で年賦償還するという条件で話をまとめ上げたのです。

     下準備を整えた嘉右衛門は、急ぎ、上京して大蔵省を訪ねると、大隈重信に面会を求めて鉄道建設の願書を提出します。その際に、勢い余った嘉右衛門が、東京側の中央停車場の場所として、将来、鉄路を北へ伸ばすことを考慮して浅草あたりが最適な地であることなどを述べると、大隈は慌てて、分厚い願書をデスクの上に置き、資金の出所について詳しい内容の説明を嘉右衛門に求めました。

     「仮契約を済ませている」と答える嘉右衛門に、懸念した大隈が口にしたのは、100万ドルという大金を一個人として貸すことができるような人物が、なぜ、横浜にいて不便なホテル暮らしをしているのかという事でした。

     この重要案件が即決される筈もなく、当初から、願書さえ受け取って貰えれば何とかなると考えていた嘉右衛門は、大隈に丁寧に頭を下げて大蔵省を去ると、大隈は伊藤を部屋に呼んで嘉右衛門の願書について相談を持ちかけます。しかし、この鉄道敷設には予期しない方向から横槍が入っており、そして、その事を知らないのは嘉右衛門だけでした。それは、第三者によって既に獲得されていた江戸横浜間の鉄道敷設とその使用権の許諾免許証の存在でした。

     いつの世にも利権にあざとい人間はいるもので、アメリカ公使館に長年勤務している書記官にボルメトンという人物がおり、江戸末期の徳川幕府の老中、小笠原壱岐守に取り入って、詐欺同然のように江戸横浜間の鉄道敷設及び使用の免許状を得ていたのです。近代文明の知識に疎(Uto)い新政府がその存在に気が付いたのは、その策士ボルメトンが免許状を持参し、徳川幕府発行の名義を新政府に変えて欲しい旨の申し出があったからでした。

     実は、この問題の担当責任者として伊藤と大隈はその渦中にあり、頭を悩ませていた折に、横浜尾上町の高島屋で嘉右衛門がいきなり鉄道敷設の話を持ち出したので顔を見合わせたという経緯があったわけで、日本の鉄道は日本で経営するのが筋で、これを外国人に経営させることによる外国の植民地のような不様(Buzama)な結果にだけはならないように結束を固めて対処していた最中だったのです。そして、この2人が深慮の結果得ていた逃げ道は以下のようなものでした。

     ボルメトン所有の免許状の日付は慶応3年11月7日となっており、徳川慶喜の大政奉還が同年10月24日だった事から、新政府に政権が移った後に、権限の無い旧徳川幕府の老中が免許を与えていることになり、無効を主張しても順法だとの判断があったのです。

    ボルメトンは外国人であり 、高島嘉右衛門は日本人。純然たる差はあるにせよ鉄道に関わる利権の大きさを考えると、それを個人に与えるということに対する省内や世論の疑問に対する答えの術(Sube)が無いというのが2人の結論でした。そして、その伏線には西郷隆盛の存在があったのです。「鉄道敷設の予算があるなら、それを全て軍備に回すのが筋である」と言うのが西郷の主張でしたから、鉄道敷設には大反対の西郷でした。佐賀出身の大隈重信と長州出身の伊藤博文の2人にとって、薩摩出身の西郷とはソリが合わないと言うか、意見が食い違う部分が多く、長い徳川幕府の藩閥政治によって培われてきた藩という垣根は明治新政府内にも自然に持ち込まれて来ているようで、それは、いずれ大問題として噴火することになります。

     伊藤が大隈から聞いていた話は、鉄道に関して、軽く、西郷に話を持ちかけた途端、「西郷が烈火のごとく怒った」と言うもので、それは薩摩出身の政府高官ですら、西郷が討幕以来、「人が変わった」とか、「江戸城無血開城が西郷さんの最後の手柄だった」などと揶揄(Yayu)している事に一抹の不安を覚える2人でしたが、彼らは、元来、蒸汽車には精通しており、ロンドン留学の際に汽車の便利さを体験してきた伊藤博文は勿論、大隈重信も、蘭学者・川本幸民翻訳の『遠西奇器述』が愛読書でしたから、伊藤と大隈は、言わば、文明の利器に対する興味によって結ばれていると言っても過言ではありませんでした。

     この2人の考えは、「嘉右衛門が100万ドルを調達できるのだから、我々が直接動けば300万ドル程度の融資も可能なのではないのか」というもので、国家の大事を前にして、嘉右衛門を出し抜くことになっても致し方ない、という妙な暗黙の了解があったのですからたまったものではありません。

     翌早朝、覚悟を決めた大隈と伊藤が向かった先は横浜でした。

Tommy T. Ishiyama

 

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