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*本コンテンツは、これまで元町公式メールマガジンにて配信しておりましたコラムです。

2020年(令和2年)6月20日号 元町コラム
横浜開港200年〜Y200(2059年)を夢みて!

【特集】 行く川の流れは絶えずして、、、その28
〜高島嘉右衛門さんの事 その(5) 〜

 

さて、、COVID-19 (Corona Virus Disease-2019)に苛(Saina)まれて長期の自粛を余儀なくされた皆さまも多くいらした事と思います。今日は気分転換を意図して、少々、本題から離れたお話を交えながら進める事に致しましょう。

伝染病や天災は人心を不安に陥れるばかりか、せっかく皆が築いて来た国家や秩序までも一気に破壊してしまうものだけに、才ある時の権力者は皆、その対策に手を打って来た筈で、韓流の宮廷歴史ドラマでも「疫病」が度々登場したし、その撲滅や介護に官民が一丸となって対処する場面を観ることができました。

外出自粛のひとときに、。ガンバレ航空業界!

日本でも、江戸時代の古文書を読み解くと、種々の状況があったことが浮かび上がって参りますが、コロリ(コレラ)や天然痘(ホウソウ)に関する記述は現代でも充分に通用する詳細さで読み解く者を圧倒致します。

この項で後述する江戸時代の「お救い小屋」も疫病に対する当時の興味ある対策の一つですが、やはり「患者の隔離」こそ、基本中の基本としてどの時代にも共通した対処の方法であることが読み取れ、「自粛」に似た対策として「遠慮」というものもありました。それは、感染を一般に拡大させない為という現代の自粛とは異なり、藩主(お殿様)に感染させないようにという観点で「遠慮」が実践されたのです。

ですので、お殿様が地元にいない時は、何ら「遠慮」の必要はなく自由だったわけですが、江戸幕府が将軍を守るために設けた法定伝染病に対する「遠慮」は1680年から実施され、その内容は感染した幕臣の35日間の登城禁止というものでした。

江戸幕府が定めた法定伝染病は疱瘡(hou sou)、麻疹(hashika)、水痘(sui tou 水ぼうそう)で、歴代の徳川将軍は「遠慮」によって守られてはいたものの、15代の将軍のうち、8歳で急逝した7代将軍・徳川家継(Ie tsugu)を除く14代の将軍の全てが感染したという記録もあって、考えさせられます。

唯一、例外だったのが岩国藩で、歴代の殿様は誰一人、感染症にかからなかったわけですが、それは徹底した患者の隔離政策にありました。きっと優秀な蘭方医学者が城中に居たのでしょう。そして、岩国藩が実施したものこそ現代で言う「休業補償」でした。君主の安全を守るために、病人とその家族、看護人に至るまでの隔離費用全額を領主が負担し、それは、各流行病ひとつにつき、実米二百石という手厚いものでした。

しかし、江戸時代はこの隔離政策を制度化していない藩が殆どでしたから、岩国藩は例外中の例外で、同じ隔離政策でも長崎・大村藩による隔離強制は悲惨でした。資料によれば「その費用おびただしく、疱瘡百貫と唱えたり」とありますから、殆どの家族は感染者が出るとどんなに古い家柄の者でも、一家の隔離によって破産に追い込まれるのが常でした。百貫とは現在の貨幣価値で数億円ですから無理もありません。

聡明な領主、施政者に恵まれた国民ほど安心な生活が保障されているわけですから、現代と比較すると、東京をはじめとする大都市圏は、現代より江戸時代の方が保護が厚かったこよが良く解ります。

「がんばろうネ」。みんな仲良く元気よく、。

現代の世に、高島嘉右衛門、そして南部盛岡の人民救済に飛び回った、その父、薬師寺(近江屋)嘉兵衛が存命していたら、TVのモーニングショウに出演して何とコメントするでしょうか? 想像するだけで胸がワクワクして参ります。

「積善余慶」(sekizen yokei)という言葉があります。「善いことを重ねた家は、その報いとしての幸せが子孫にまで及ぶ」という意味で、周代の占いの書で五経の一つでもある「易経」の中にハッキリと書かれています。

陰陽を組み合わせた六十四卦によって自然と人生との変化の法則を解説しているので、「周易」とか単純に「易」とも呼ばれているわけですが、高島嘉右衛門の父、薬師寺嘉兵衛が佐賀鍋島家から実米3万石を調達し、11万両を長期割賦支払いという離れ業で南部藩の窮状と60万余の命を救ったその冷害は、後世、江戸四大飢饉として名を連ねる事になる大規模災害に発展し、それは「寛永の大飢饉」、「享保の大飢饉」、「天明の大飢饉」に次ぎ「天保の大飢饉」として歴史に刻まれています。

とくに東北の陸奥国や出羽国の被害が大きく、また、100万石を超える石高を有する仙台藩では米作の割合が極端に高かったために甚大な被害を被りました。被害拡大の原因となった米作に偏った政策を執っていた藩主に対しては、領民が強く反感を抱くエリアも多く、百姓一揆や打ちこわしが激増したのです。

江戸では徳川幕府が21箇所に及ぶ「お救い小屋」を建てて窮民を収容し、寛政の改革による備蓄米や銭を与えるなど70万人を越える領民に救済の手が差し伸べられましたが、それは、遡ること約50年前におきた天明の大飢饉の経験が生かされた対応がなされた結果である事が記録から判明しています。

この善政により、江戸に限っては一揆や打ちこわしを未然に防ぐことにつながりましたが、しかし、米の価格が急激に上昇すると全国各地で年間で100件を超える百姓一揆や打ちこわしが続きました。

横浜発展の祖となった高島嘉右衛門を語るにあたっては、まさにその父の存在が欠かせない理由がその行動力と人脈にあったのです。

薬師寺嘉兵衛は茨城県新治郡牛渡村の庄屋の家に生まれました。昔の次男、三男は肩身の狭いもので、家督相続の権利からは外され他家へ養子に出されるのが一般的でしたが、この嘉兵衛は21歳になると自ら江戸に飛び出し、材木商の手代奉公から叩き上げて、ついには主家からの暖簾(noren)分けで遠州屋材木店を同じ町内の江戸三十間堀(東京都中央区銀座)に出店し、そして48歳の時に第一子・嘉右衛門が生まれます。商人だからと、帳面の上でソロバンをはじいて金勘定だけをしていたわけではなく、士農工商の序列とは別にそれなりの実力と気風の良さで大きな取引を成り立たせていたのです。そして、その血を受け継いで、その子、高島嘉右衛門が華々しい人生を紆余曲折させながらいよいよスタート致します。

(続く、、皆さまどうぞお健やかに、。)

Tommy T. Ishiyama

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