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*本コンテンツは、これまで元町公式メールマガジンにて配信しておりましたコラムです。

2020年(令和2年)10月5日号 元町コラム
横浜開港200年〜Y200(2059年)を夢みて!

【特集】 行く川の流れは絶えずして、、、その35
〜高島嘉右衛門さんの事 その(12) 〜

横濱が開港という夜明けを迎えようとしている直前の、この安政年間は日本が一気に近代化へ爆進するエネルギーが充満していたような時代でした。

高田屋嘉兵衛(後の高島嘉右衛門)が、商才により築いた富を全失したことに加えて、請け負っていた数多くの建築物の再興の為に、更に莫大な借金を重ねて約束を履行した結果、右も左も首が回らずに立ち尽くしていたそんなご時勢をあざ笑うかのように、「大」がつく事件が立て続けに勃発したのがこの時期だったわけですが、筆者が不思議に思って調べたのは嘉兵衛の浮き沈みの元凶だった「安政の大地震」というその名称でした。

「安政伊賀地震」「安政東海地震」「安政南海地震」「豊予海峡地震」は安政への改元前、つまり、嘉永7年に発生しているわけですから「嘉永の大地震」と称されなければならない筈です。そして行き着いたのが新元号の登場の際の解釈の仕方でした。

結論から言えば、明治への改元の際と同様に、一連の地震の起こった嘉永7年(1854年)は、1月1日に遡って安政元年に改元されたという解釈から、歴史年表も安政元年を採用しているので「安政の大地震」で良しというわけで、「嘉永」と言うと遠い世界に感じますが、「安政」と聞くと横濱開港に絡んで身近に感ずるし、時代の位置もそれ相応にパッと頭に浮かぶので好都合でした。

記録によれば、明治に改元する際の詔勅(sho-choku :天皇の意思を表示する文書の総称)で、「慶応4年9月8日(1868年10月23日)を明治元年と改元する」とのことから、旧暦1月1日に遡って明治が適用された結果、この年の1年間は、閏4月のある13か月間で383日間あったという面白い話が浮き彫りになっています。

現代になって歴史的な考察をする場合や、季節感、歳時記、また、二十四節期や、俳句の季語など、実際の季節感と微妙な誤差が生じてモヤモヤするのはこの為ですが、どうしても、旧暦と新暦の季節感が1ヶ月程度、ズレて感ずるので、誰かがいつか解決してくれるものと期待している次第です。

さて、安政5年(1858年)、大老井伊直弼(Ii Naosuke) による開国反対派などの弾圧が開始された「安政の大獄(Tai Goku)」、加えて、安政7年(1859年)にかけての「コレラ大流行」、そして、江戸幕府崩壊の引き金となった井伊大老の江戸城桜田門外での暗殺(桜田門外の変)は激動の幕末を予感するのに充分な出来事でした。

嘉兵衛は莫大な借金を抱えて動きが取れなかったところを、鍋島藩(佐賀藩)からの要請を受けて、安政6年6月2日、横浜港開港の日に「肥前屋」を横濱本町通りに開店し、商売は繁盛しているものの、高価な陶磁器の販売や異人相手の慣れない商売に加えて、連日押しかけてくる借金取りの攻勢に神経をすり減らしていましたが、ふと、気が付いた事は、外国人商人の商売では商品を購入する際には全て銀貨で支払いをしているのに、商品を販売する時は、全て、小判での支払いを顧客に強いている事でした。

※五雲亭貞秀による『神名川横浜新開港図』国立国会図書館蔵。出版は開港翌年の万延元年(1860年)。当時のメイン・ストリート、横濱本町通りの賑わいを描いているこの錦絵は、横浜の風景や外国人の風俗などを題材にした「横浜浮世絵」と呼ばれて人気を得ました。五雲亭貞秀はその筆頭で、昨年、2019年、横浜開港160年記念の催しとして、神奈川県立歴史博物館開催による特別展が開催され、同博物館及び公益社団法人川崎・砂子の里資料館の所蔵作品を中心に約330点が20年ぶりに展示され、絶賛を得ました。

※色絵花鳥文六角壺(柿右衛門様式)17世紀
(東京国立博物館蔵)

※伝統の藩窯 /大川内山 鍋島焼 窯元 作
鍋島焼(Nabeshima Yaki)は17世紀から19世紀にかけて、佐賀藩(鍋島藩)が藩直営の窯で製造した高価な高級磁器でした。

余談になりますが、伊万里焼と古伊万里の大きな違いは、江戸時代に有田(佐賀県有田市)で焼成された歴史的骨董価値のある作品を古伊万里と呼び、明治以降に現在の佐賀県伊万里市で焼成された磁器のことを伊万里焼と呼び表しています。

現在の伊万里焼と呼ばれる陶磁器は明治初期に焼き物を産地名で呼ぶようになってからの登場で、古伊万里は中国の王朝である明(min)から清(shin)への時代変革時に発生しました。欧州へと輸出されることとなった古伊万里はヨーロッパの王侯貴族達に絶賛され、現在も高価なオールドイマリ(Old Imari)として熱烈なコレクターが世界中に存在しています。

さて、外国商人の銀と小判の使い分けを不思議に思った嘉兵衛は、早速、小判の金の分量と銀貨の銀分量を比較し、その価格を算出して目を見張りました。幕府の役人や勘定方がまだ把握していなかった金銀の交換率に大きな誤差があり、小判を貨幣として使用せずに金塊に鋳潰し、時価で売れば公定換算率の3倍の金が手に入る事に気が付いたのです。

借金返済の絶好のチャンスに恵まれたとばかりに嘉兵衛は奔走を開始するのでした。深く暗い危険な淵が、嘉兵衛が落ち込んで来るのを待ち構えていることに、気がつくはずのない若き嘉兵衛がそこにいました。(続く、、)

Tommy T. Ishiyama

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