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*本コンテンツは、これまで元町公式メールマガジンにて配信しておりましたコラムです。

2021年(令和3年)11月20日号 元町コラム 
横浜開港200年/Y200(2059年)を夢みて!

【特集】 行く川の流れは絶えずして、、その62
                 〜 高島嘉右衛門さんのこと 〜(39)       

     「これじゃーぁ、徳川さんの時代の方がよっぽどマシじゃったのう」。国民のだれもがそう言うのも無理がありませんでした。明治政府がなかなか本格稼働出来なかったのは、リーダーたる薩長を中心とする政府高官達の能力不足が主要因でしたが、牛歩のような日々ながら内部的には日進月歩で奮戦していた折、追い討ちをかけるように西郷隆盛が鹿児島で不平士族に押し切られた形で挙兵したのが「西南戦争」(1877年1月29日〜1877年9月24日)でした。

※ 「鹿児島暴徒降参之圖」(個人蔵)
画・大蘇 芳年(Taiso Yoshitoshi / 月岡 芳年 1839〜1892)。浮世絵が需要を失いつつある時代に最も成功したとの評価がある浮世絵師。門下から多くの日本画や洋画で活躍する画家を輩出した芳年は「最後の浮世絵師」と評価されたーーー。

     この西南戦争に関する戦費は、西郷軍の70万円に対して、政府軍は実に4156万円と巨額を数え、これは当時の全税収4800万円の殆どを費やす結果となりました。政府が戦費調達のために不換紙幣(政府の信用のみで流通する金)を乱発した結果は明白で、インフレーションを引き起こすに至ります。ちなみに、官軍死者は6,403人、西郷軍死者は6,765人に及び、戦争終結の話し合いを持つなど、論理的な説得力に乏しかった政府が闇雲に突き進んだ虚しい戦いでした。この戦争で、多数の負傷者を救護するために活躍したのが博愛社(日本赤十字社の前身)でした。

     財政難となった国は「原則国有」としていた鉄道建設が困難となり、代わって私有資本による鉄道建設が一気に進む結果となりましたが、西南戦争は政府の財政危機を惹起(jyakki)させて、インフレ、そしてデフレを もたらし、当時の国民の多くを占める農民を没落させるなど、プロレタリアート(Proletariat / ドイツ語 : 資本主義社会における賃金労働者階級のこと)を増加させたのです。その一方で、一部の大地主や財閥が資本を蓄積し、初期資本家が出現する契機となったほか、資本集中による民間の大規模投資が可能になった結果、日本の近代化を押し進めると同時に貧富の格差を拡大させたのです。

     一方、横浜〜函館定期航路からさっさと撤退した嘉右衛門は、横浜・東京のインフラ関係や港湾関係に多く関わり、南は佐賀鍋島藩、北は東北の南部藩、静岡、愛知など、全国規模で飛び回ります。殆ど鉄道のない時代でしたから、その労苦は大変なものと想像できますが、その中でも北海道での多岐に渡る活躍は多くの足跡を現在に残しています。

     以前に少々触れた部分ですが、2006年(平成18年)4月に廃線となった「北海道ちほく高原鉄道ふるさと銀河線」にも「高島駅」がありました。この「高島駅」も、横浜市西区にあった東横線「高島駅」同様、高島嘉右衛門に因んでつくられた駅ですが、北海道での駅名としては1910年(明治43年)9月22日国有鉄道網走線の駅として開業したこちらの「高島駅」の方が歴史ある駅でした。

※旧東横線「高島町駅」エリアに「2代目横浜駅」があった事を知る市民は少ない。高島町交差点際にある派出所(戸部警察署高島交番)の裏に、旧横浜駅舎の基礎部分が遺構の一部として保存されており、同時に「横濱共同電灯会社・裏高島発電所」第二海水引入口の遺構も自由にいつでも見学できるーーー。

     横浜にあった東横線高島駅(後に高島町駅)も2004年3月に廃止されましたが、何故、北海道に高島駅があったかと言うと、北海道の十勝川流域、帯広市の北東に位置する中川郡池田町高島は明治中期に高島嘉右衛門が開いた「高島農場」によって発展した町なので、鉄道インフラに強かった高島が鉄道敷設を念頭に農場周辺の道路整備に邁進したのです。この「高島農場」は大正11年の地図でも確認することができますが、この当時の地図にある農場の横に開校した学校は、現在も池田町立高島小学校として存在しています。

     高島嘉右衛門の北海道ビジネスは明治早々の頃から既にスタートしており、横浜港〜函館港間の定期航路の大失敗直後も嘉右衛門は諦めることなく継続して北海道でのビジネスチャンスを狙っていたのです。

     ちょうどこの頃、新潟県三条町から来た二人の青年、今井藤七と高井平吉が北海道札幌に開いた小間物店が苦労の末に成功を納め、地域一番店となった1874年(明治7年)に店名を「丸井今井呉服店」と改称します。この「丸井今井呉服店」が北海道随一の老舗デパート「丸井今井」として現在に至っている訳ですが、函館も札幌も、地元の皆さんは必ず「丸井さん」と「さん付け」で呼ぶ習慣がある「丸井今井」の創業期から、高島嘉右衛門が深く交流していた事に横浜と北海道のご縁を感ずる次第です。

※写真は函館の「丸井今井」。丸井今井は残念ながら近年経営破綻し三越伊勢丹ホールディングス傘下となったが、大正13年に札幌の老舗、丸井今井本店ビルの設計を担当したのが「遠藤於菟」(Endoh Oto)で、ビル建設に際しては高島嘉右衛門も深く関わっている。日本における鉄筋コンクリート技術の先駆者と評される遠藤は横浜に設計事務所を置き、多くの趣き溢れる建築物を手がけたが、現存するものには横浜馬車道に毅然と建つ重要文化財の「旧横浜正金銀行本店」(現・神奈川県立歴史博物館 / 1904年・明治37年)のほか、「三井物産横浜支店」(1911年・明治44年)、再開発予定地にあるものの保存が決定されている「生糸検査所倉庫事務所」(後に帝蚕倉庫事務所 / 現・北仲BRIC / 1926年・大正15年)があるーーー。

     精力的に北海道のビジネスチャンスを追い求めた嘉右衛門は、1889年(明治22年)「北海道炭礦鉄道会社」に出資し、経営参加します。この頃に関係があったのが北海道の地図のくびれた部分、日本海側にある瀬棚町(Setana-cho)で日本の女医第一号となった「荻野吟子」でした。

     吟子が高島嘉右衛門の家で家庭教師をしていた縁で、嘉右衛門の尽力で皇漢医「井上 頼圀」に頼み込み、時の衛生局長「長与 専斎」の紹介を得た吟子は、何度も必死の懇願の末、1884年(明治17年)9月、まず前期試験(物理学・化学・解剖学・生理学)を受験します。この時の女性受験者は4名(荻野吟子、木村秀子、松浦さと子、岡田すみ子)で合格者は吟子ただ一人でした。その後、吟子が無名青年と結婚して北海道瀬棚村へ赴き、高島が支援して荻野医院開業に至ったという経緯がありました。(続く、、)

Tommy T. Ishiyama

 

   

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