2024年(令和6年)8月20日号 元町コラム
横浜開港200年 / Y200(2059年)を夢みて!
モトマチのフェニックス 〜不死鳥の翼に乗って〜(16)
〜 異国の風に吹かれるように元町ストリートを歩こう 〜
ヘボン式ローマ字の発案者ヘボン博士(James Curtis Hepburn / 1815年3月13日 〜 1911年9月21日)は、横濱開港と同時に来日した医師で、アメリカ長老派教会の医療伝道宣教師という肩書きでした。
現在の元町ストリートの海側、フェニックスゲートの上で羽ばたくステラマリス(Stellamaris)を通過して、谷戸橋を渡って右側の「人形の家」方面へ向かうバス通り沿いにヘボン邸があり、旧横濱居留地39番(現在は横浜市中区山下町39番地)のその地には博士のレリーフと共に「ヘボン博士邸跡」と記された記念碑があります。
※ ヘボン博士の住まいの跡地を示す記念碑。 レリーフの博士が中村川(堀川)越しに元町とその先に存在する市大病院(市民総合医療センター)を今日も静かに見守っているーーー。
堀川(現在の中村川)が海と交わるこのエリアには、対岸に聳える山手の丘の麓に一段高く増徳院があって、元町ストリートはそこで行き止まりだった為に門前町の様相を呈していました。 現在、増徳院は移設された南区平楽の丘にあって元町のリバーサイドに薬師堂が残るのみですが、整地された同地にはメインストリートから元町中華街駅の元町口を経由して谷戸坂へ続く道や元町プラザ、元町SS会の事務所等が建ち並び、山手の丘に連なる外国人墓地の門が当時を偲ぶように佇んでいます。
博士の休日の散歩道は自宅から堀川沿いに前田橋(Maita-bashi)まで直進し、橋を渡って真正面に聳える急峻な元町百段を上って浅間神社でお茶と草餅でひと休み。 ゆっくりと横濱居留地と港を一望してから山手に住む親友のDr. シモンズ邸に立ち寄り、当時は世界的にも珍しかったテニスを楽しむのがお決まりのルートでした。
シモンズ邸のテニスコートは言わば国際的な社交場の様相を呈していて、チフスを患い、死の淵から博士に助けられて生還した福澤諭吉や旧幕臣の勝海舟をはじめ、横濱居留地のご婦人達が集い、本町にあるクロフォードの店から取り寄せた英国製のクッキーとティを頂きながらの談笑三昧。 中でも人気者だったのは東京から優雅に2頭だての馬車を自ら操り、にこやかにやって来るクララ ホイットニー(Clara A. Whitney / 1860年8月30日〜1936年12月6日)でした。
クララは米国ニュージャージー州ジョージタウンの生まれで、明治政府の森有礼の要請により教育担当のお雇い外国人候補のひとりとして来日した父親と共に14歳で来日し、後に赤坂病院(現在の日本基督教団赤坂教会)を設立するウィリス ホイットニー(Willis Norton Whitney)とは兄妹の関係にありました。
勝海舟の懇意で邸内に「ホイットニー バイブル塾」を開設した父親のおかげでクララの交友関係はハイレベルな広がりを見せ、勝家の人々をはじめ、立教大学創設者のチャニング ウィリアムス(Channing Moore Williams / 日本聖公会初代主教)、立教女学校校長のクレメント T ブランシェ(Clement T. Blanchet)、近代日本の女子教育者のひとりで日本初の知的障害者福祉の創始者となる石井筆子(男爵 渡辺清の娘で滝野川学園第2学園長 / 清修女学校校長)、そして日本最初の女子留学生のひとりとして米国ペンシルベニアの名門女子大、ブリンマー大学(Bryn Mawr College)から帰国した津田梅子(津田塾大学の創設者で新五千円札の人物)、また、同じく留学生としてニューヨークのヴァッサー大学(Vassar College)を卒業して学士号を得た最初の日本人女性でもある山川捨松(後の元老 大山巌の妻の大山捨松 / 華族 / 女子教育家)等と華やかに交流しており、親交が深かった勝家との縁から海舟の三男、梅太郎と結婚しています。
さて、横浜山手に住んだDr. シモンズ(Duane B. Simmons / 1834年8月13日〜1889年2月19日 / 青山霊園に墓碑がある)は横浜開港(1859年7月1日 / 旧暦安政6年6月2日)直後の11月に来日して以来、米国人医師として日本の医療に大貢献を果たした人物ですが、その名声は東京にも鳴り響いていた為、「横濱のドクトル セメンズ(シモンズ)」と呼ばれて有名でした。 後に、氏は現在の市大センター病院(正式な名称は横浜市立大学附属 市民総合医療センター)の前身である関内北仲町にあった「十全病院」で横浜の近代医学の基礎を築き上げた人物です。
※ 通称・市大病院(市民総合医療センター)のメインホールに設置されているDr. シモンズの記念碑は高さ2.78メートル、幅1.48メートルの白御影石仕様で、アーチ型上部にシモンズ博士の肖像がはめこまれ、下部に博士の紹介文と建設の辞の銘文、及び十全醫院の図が、銅板に刻まれているーーー。
今でこそ2ヶ所に分かれている「市大附属病院」と「市民総合医療センター」ですが、その歴史を知る私たちは浦舟町の医療センターがあるこの地をもって「市大病院」および「市大医学部発祥の地」と考えることに異を唱える者はいないでしょう。
市大病院の前身となった十全医院が関内に移設新築されたのは1926年(大正15年)で、大正12年の大正大震災(関東大震災)の直後のことでしたが、それまでは横浜港を見下ろす野毛山の高台にありました。 現在、老松(Oimatsu)中学校が建ち、その下に市立中央図書館がある場所ですが、ここに1873年に中区太田町6丁目にあった「中病院」が移転しており、シモンズ博士は来日以来、宣教師活動を止めて医師として十全医院の前身であるこの「中病院」の頃から勤務していたと記録にあります。
一方、親友のヘボン博士は中区尾上町のバス通りにある指路教会の設立者でもあると同時に、1863年創設の英学塾「ヘボン塾」から派生したのが「明治学院大学」ですので、Dr. シモンズと同様に社会貢献を目指した博士のヘボン精神が継続されて現代に息づいている事が容易に理解出来ます。
歴史を少し学んでからのヨコハマ散歩はお薦めです。 横浜にはそこかしこに偉大な先人たちの足跡があって時代を超えた会話を楽しむ事が出来ますからタイムカプセルの中を歩いている感じが致します。 心地よい緊張感と高揚感に身が引き締まる事でしょう。
Tommy T. Ishiyama