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2024年(令和6年)10月20日号 元町コラム
横浜開港200年 / Y200(2059年)を夢みて!

モトマチのフェニックス
  〜 不死鳥の翼に乗って 〜(20)

〜想い出を手繰り寄せて人生のパワーに致しましょう〜

 爽やかな秋が訪れています。 今、思うとあの冷たく純麗だった「元町公園プール」が懐かしく何度も頭をよぎった今年の夏の異常さは一体全体何だったのか、不思議な気が致します。

 思い出したのは、元町プールの水温が低く冷たかったこと。 唯一、真夏のプールで気持ちが良かった真の理由は湧水を利用していたからですが、幕末期に来日したフランス人の実業家「ジェラール」(Alfred Gérard / 1837〜1915)が、明治初頭に、現在も保存されている「水屋敷」の遺構が残る元町公園のこの地を手に入れ、敷地内に豊富に湧き出る良質な水を横浜港に出入りする船に供給するなどで財を成したわけですが、この湧水がプールの水として利用されていたので、特に暑い日は清涼な水を湛える元町のプールが気持ち良く、評判でした。

 現在は水道水を使用しているので他のプールと同様なものの、緑に囲まれた閑静な立地環境がクールさを演出しているので昔の水温が現在も維持されている様に錯覚致します。

※ 元町公園のモニュメントパネルにもある飛び込み台があった頃が懐かしい「元町公園プール」ーーー。

 さて、人間には何に対しても限界まで挑戦したいという願望があってそれを成就した時の満足感は格別ですが、筆者達のいわゆる団塊の世代の少年時代はプールの飛び込み台の高さにこだわりと競争心があり、ひたすらそれに挑んでいました。 それが他の全ての挑戦へのスタート台になっていた様な気が致しますが、遠い記憶の世界にボンヤリ残っている「元町公園プール」にも本格的な飛び込み台があって、既に使用禁止だった為に我々が向かった先は山手から真正面に見える野毛山でした。

 横浜野毛山の高台には観客席を有する本格的な50mの競泳用のプールがあって、国体(第4回国民体育大会 / 1949年)の水泳競技の会場にもなった経緯があり、また、水を抜いてステージを設置し、プロレス興行や歌謡ショウ等にも利用されるなど、人気の施設だった事と、何より、併設されていた高飛び込み用のオーバル型のプールの深さも恐怖なら、飛び込み台の高さはもっと恐怖で、我ら冒険少年達には格好のチャレンジワールドとして全ての冒険の始まりのような場所でもありました。

※ 「かながわそら散歩」より。(神奈川新聞社ドローン空撮写真 / 2023年2月26日 日曜日 午前5時の野毛山より)。 左側の森の木々の向こう側の中腹から関内・横浜スタジアム方面、そして伊勢佐木町・平楽の丘など、横浜の市街地を一望出来る一帯に野毛山プールがあった。 写真下にある橋を渡ったこちら側が野毛山動物園という位置関係になるーーー。

 現在の様に細かな規則が無かった時代、技と度胸に自信のある一般人や元選手だったような皆が順番にそれぞれの高さから飛んでおり、その合間を縫って10mの飛び込み台に上った我々が大驚愕を来したことは言うまでもありません。横浜の市街地が一望出来る高台の、更にその上に聳えるように存在する飛び込み台でしたから、まるで飛行機から飛び降りるのと同じ覚悟が必要だったわけで、今、思い出してもゾクッと致します。 ですので、3mと5mまでがもっぱらの縄張りでしたが、それでも恐怖心と飛び込んだ瞬間の衝撃はかなりなものがありました。

 後年、京都の皆さんの『清水の舞台から、、』をもじって、我々は『野毛山の飛び込み台のてっぺんから』飛び降りた覚悟と勇気で自らのチャレンジ精神を煽ったものでした。 

 厳冬の蔵王でも『飛び降りた』気持ちで毎年鍛えていたおかげで、オリンピックやアルペンスキーの世界選手権で多くの金メダルを獲得し、超有名選手から俳優に転向したばかりの「トニー ザイラー」さん(Anton “Toni” Sailer 1935〜2009 / 映画「白銀は招くよ」など多数)にお伴して、標高1661mの山頂駅から深雪のザンゲ坂の樹氷原を縫い、一気にパラダイスの「ザイラーコース」(後に命名)を経由して里の「上の台ゲレンデ」までの全長8kmをご一緒する事が出来たし、また、全日本のアルペンスキーチームの第一人者で強化コーチだった「見谷昌禧」(Mitani Masayoshi / 1938年1月5日 〜 )氏に憧れて、八方尾根の難所、第3ケルンから黒菱小屋への長い急斜面を経由して「リーゼンスラロームコース」から細野の部落の「名木山(Nakiyama)ゲレンデ」までを必死に「落ちた」経験は更に大きな自信に直結して、孤独な海外での単身赴任や国内のハードなビジネス環境を乗り越える原動力になりました。

※ もはや新世代の身内は誰も信じないが陽に焼けた顔と往年の長い板は競技スキーヤーの証。 学生生活を終えたシーズン最後の締め括りに訪れた八方尾根のあの日から55年余、唐松岳直下のケルンに蔵王権現のお守りと形見となった祖父の数珠をお供えして感謝と共に未来を祈ったーーー。(正面右側で微笑む白い衣装の友人K.A. は現在も横浜を拠点に音楽ライブと放送MC & PDとして活躍していて頼もしい)

 全ては、、挑戦と言うか「無謀」に近いチャレンジ精神のおかげでしたが、種々の満足感を得ることが出来て爽快な日々でした。 但し、母の里、山梨での夏休みの当時、早瀬の流れが不規則で危険なほか、どん深の淵が不気味に澱んでいた笛吹川(fuefuki-gawa)で死にそうになった事件は別にしてのお話ですが、、。

 そんな人生で得た教訓はビジネスの現場で立ち塞がる様に登場する自らの限界も必ず飛び越えられる事を教えてくれましたが、それが、イザ、壁を乗り越えてみるとたいした「限界」でもなかったことにスグに気がつく反面、そこからが大変で、つまり、限界を超えるたびに今まで以上の大きな壁にぶつかったり、人間関係もそれまで以上に複雑になってくることから大きなストレスが襲いかかってくる事も必至(hisshi)で、でも、「それも必ず乗り越えられますから、、」と自分で自分に言い聞かせて今日があるという次第です。 

 皆さまのパワー溢れる思い出の数々を是非ご披露下さい。 ご拝聴出来る機会に恵まれます様にひたすら願っております。

 もし誰か、Something Greatのような存在に、「今までと同じ人生で良ければ、生まれ変わってもう一度人間やってみる?」と問われたら、即座に「やります」と答えられる性根だけは持ち続けていたいものです。

Tommy T. Ishiyama 



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