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*本コンテンツは、これまで元町公式メールマガジンにて配信しておりましたコラムです。

2021年(令和3年)6月20日号 元町コラム
横浜開港200年〜Y200(2059年)を夢みて!

【特集】 行く川の流れは絶えずして、、その52
                  〜高島嘉右衛門さんのこと その(29)

   高島嘉右衛門が陣頭指揮をとるハイクラスな旅館・横濱高島屋は、明治期の政治と横浜発展の夢を現実に変えて行こうとする人々が集う「未来のための館」の様相を呈していました。後年、日本史に名を残す幾多の人々が行き交い、横浜港から旅立ち、ヨコハマへ戻って来たのです。

     現代でヨコハマと言えば、横浜市民に「ヨコタカ」と呼ばれて親しまれている「横浜高島屋」が頭に浮かびますが、元町の有名店とも取引の多いこちらの高島屋は、嘉右衛門の高島屋よりも古い1831年(天保元年)の創業ですから大したものです。京都で古着・木綿商を開業した飯田新七が「高島屋」と名付けたのは、義父の飯田儀兵衛の出身地が近江国高島郡(現在の滋賀県高島市)だったからですが、明治中期に貿易業に参入した後に高島屋呉服店として成功し、発展の基礎を築きました。東京・日本橋に進出したのは1933年(昭和8年)の事で、横浜とのご縁は第二次世界大戦後の1952年(昭和27年)に遡ります。同年、後に高島屋と合併する事になる相鉄(相模鉄道)が米国スタンダード・オイル社から、横浜駅西口にあった同社の所有地24、688m2(約7千5百坪)を買収し、やがて、横浜駅西口の開発が実施されると、その再開発事業として相鉄が建設した駅ビル「相鉄ジョイナス」のキーテナントとして横浜高島屋の開店に至ります。その経緯には、今や、伝説となっている数々の秘話があって、当時、相鉄は自社による直営百貨店の経営計画と同時に、横浜駅西口への出店百貨店を模索しており、相鉄が横浜進出の話を最初に持っていった先は「三越」でした。

※昭和28年ころの横浜駅西口(奥村泰宏氏 所蔵)
     コラム本編では、まだ、陸蒸気(Oka-Johki 鉄道のこと)は開通していないが、写真は戦後しばらくしてからの横浜駅西口。このエリアが大発展したのは、歴史的な時間のサイクルでは、まだ、最近のこと。特に、反対側の東口エリアの発展に関してはごく最近の事と言える。そして、現代の商戦は《横浜駅エリア》対《元町・関内・MM連合軍》の様相を呈してきたーーー。

     さて、三越にあっさりと横浜駅西口への進出を断られた相鉄は、必死の思いで「高島屋」に白羽の矢を立てたわけですが、三越の情報を得ていた高島屋は自社のプライドから断り続け、双方の合意に至るまでには、それ相応の密約が交わされた事が容易に想像できます。それは、後年、大商業エリアとして発展した横浜駅西口への進出を願う三越に対して、あらゆる手段を駆使して進出の遅延を画策したほか、時間を稼ぎながら三越進出を睨む高島屋は、第1次大増床計画の遂行と相鉄線の駅ビル乗り入れ計画の完遂を見るなど、商業的戦略の全てに先手を打つ事が出来た事が全てを物語っているように思います。後年、やっとの思いで横浜進出を果たした三越が早々に横浜撤退を余儀なくされ、時が流れた現在、「そごう横浜店」(1985年9月30日開店 / 現在はセブン&アイ・ホールディングス傘下)を擁する東口エリア対西口筆頭の高島屋の一騎打ちの様相を呈しているわけですが、その「ヨコタカ」の法人名は、1957年4月に高島屋と相鉄不動産(初代 相鉄ホールディングス)の出資によって、既に設立されていた「株式会社横浜高島屋」ということになります。

     商業戦争の浮き沈みは天気図の如くで、高気圧が張り出せば低気圧がやって来るし、低気圧が長く停滞すれば高気圧は必ず張り出して来るわけで、長い目で見ればその繰り返しに終わりはありません。歴史を作る時代の移り変わりにも同じ事が言えますが、近代への最大の過渡期、それが明治という時代でした。

     余談の延長で恐縮ですが、日本の元号を西暦で眺めたほうが時間の経過がわかりやすい為に、本コラムでも両者を併記する場合が多いわけですが、脱線ついでに少々ハッキリさせておきたい事があります。例えば、明治元年(慶応4年)を西暦で正確に言うと西暦年を2つまたぎ、「明治元年1月1日から11月18日まで」が《1868年1月25日から12月31日》、「明治元年11月19日から12月30日まで」が《1869年1月1日から2月10日》ということになります。

     つまり、日本は慶応4年9月8日に「明治」と改元し、「慶応4年をもって明治元年とする」として旧暦1月1日に遡って適用されました。ちなみに、この日、「慶応4年9月8日は西暦では1868年10月23日」でしたので、この年の1年間の長さは、閏4月のある13か月間で383日間あったことになります。また、日本では明治5年12月2日(1872年12月31日)まで 太陰太陽暦を採用していたため、これが西暦との月日にズレが生じている原因で、この太陰太陽暦のことを通称「旧暦」と言っているわけです。ですから、簡単に年号だけ入れ替えて、月日はそのままというのは間違いで、例えば、現代風に横浜の開港について正確に述べると次のようになります、、

  『横浜港は、1858年7月29日(旧暦安政5年6月19日)に締結された日米修好通商条約(安政五カ国条約)に基づき、1859年7月1日(安政6年6月2日)に武蔵国久良岐郡横浜村《Musashi no Kuni Kuraki-gun Yokohama-mura》(現在の横浜市中区関内エリア)に開港され、生糸貿易港として中心を成した後、京浜工業地帯の工業港として発展し、東京の外港として確固たる地位を占めている』、、と。

     この短い文節は、横浜に住み、横浜を愛する皆さまには、是非、暗唱しておいて頂きたいと願う次第です。

※写真は横浜市歴史博物館が横浜開港資料館と連携した当時の企画展「戊辰戦争と横浜・名もなき民の慶応四年」のポスターだ。開催された一昨年の2018年は、丁度、「戊辰」の年だった。慶応4年/明治元年(1868年)からジャスト150周年、横浜の開港場と近隣の村々で何が起こっていたのか? 横浜エリアでは戦闘こそ起こらなかったものの、横浜の村々が慶応4年(1868年)の3月から5月にかけて、新政府軍や旧幕府勢力とさまざまな関係を有していたことや、横浜に陣屋を持っていた唯一の藩、武州金沢藩の動きがハッキリと理解できた。地元の資料から解き明かされる歴史的事実の数々は、迫力を持って150年前の横浜の歴史を私たちに伝えてくれた事を思い出したーーー。

     さて、 前述の方式に沿って本文を続けると、高島嘉右衛門が伝馬町の牢から解放され、横浜で開花する直前の世の中は、徳川慶喜が天皇の勅命(Chokumei / 命令)を受け、薩摩の西郷も同調していたのが長州攻撃でした。これがいわゆる「禁門の変」で、勃発したのが旧暦元治元年 7月19日 (1864年 8月20日)のこと。つまり、長州が朝敵(天皇の敵)だったわけです。それが戊辰戦争で、いつのまにか徳川が朝敵となる歴史の不思議。後述する機会があるかと思いますが、糸を辿れば、簡単な手品を岩倉具視が使った事がわかります。

     また、イギリス軍が長州を砲撃した「下関戦争」(Shimonoseki Sensoh)が勃発したのは、嘉右衛門が横浜で活躍し始めた頃と同じ時期の幕末、文久3年(1863年)と同4年(1864年)のことでした。長州藩と列強4国(イギリス・フランス・オランダ・アメリカ)との間に前後二回にわたる武力衝突が起こったわけですが、それらは攘夷思想(Joi Shiso / 外敵の排除思想)に基づくものでした。その結果、武力の差で簡単に打ちのめされた長州藩は幕政下での攘夷が不可能であることを悟ります。長州がイギリスに接近して軍備の増強に努め、倒幕運動を推し進める原動力としたのは必然の事だったのです。そして、それは、当時の若者たちが「攘夷、ジョウイ」と熱病のように叫び狂っていた攘夷思想が長州藩で一気に沈静した瞬間でもありました。(続く、、)

Tommy T. Ishiyama

 

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