2025年(令和7年)9月5日号 元町コラム
横浜開港200年 / Y200(2059年)を夢みて!
横浜モトマチ
“Rainbow Connection”
遥かな虹を超えて 〜(17)
♪コテコテの土佐訛りを武器に大活躍をした龍馬♪
だいぶ以前の話になりますが、旧知の永 六輔さんと古い時代の「横濱」についての対談の後、元町喜久家さんで我々の真夏の大好物だった懐かしのアイスココアを美味しく頂いていた時のこと、宮沢賢治の詩『雨にも負けず』について彼一流の論理で熱く語っていたことがありました。 つまり、六輔さんの印象では「どこか偽善的で大嫌いな文章」と言うことでしたので話は続きます。
永さんが文字通り以前からそのように思っていた賢治の「詩」だったわけですが、ご本人が岩手へ旅した時のこと、地元の朗読会でお婆ちゃんが登場すると方言そのままにこの詩を素朴に読み上げた時、永さんは感動して涙が止まらなかったと率直な感動を述べ、その情景を思い出してまた涙するや「方言が持つ力の偉大さをあらためて痛感した」とその時の感動の深さを熱く語ってくれたのです。
「方言」はその地方の土地・風俗に密着した言語形態ゆえに素直な感情が端的に表現されているので心に響くわけですが、映画やドラマでも最近は「方言指導」という先生方が厳しい指導をしているので時代考証や方言の確かさは私自身がメディアの現場にいた大昔のそれとは格段の差があり、感情や状況を見据えた大きな脇役を占めている実感があります。
※龍馬の最愛の妻「おりょうさん(龍子)」が眠る「信楽寺(shin-gyo-ji)」。京浜急行浦賀方面、京急大津駅下車徒歩スグ。立派な墓標に線香の煙が絶えることなく漂っているーーー。
さて、ドラマに登場する人物の方言では西郷さんの鹿児島弁以外に誰もが一番印象に残っているのは、どのドラマに登場しても土佐弁丸出しの御仁、そう、常に未来を見据えたプラス思考全開の「坂本龍馬」氏につきると思うわけですが、「ポジティブなプラス思考は ゴッツウ エエことばかりゼヨ~」などと発する好奇心旺盛な龍馬氏の声が令和の空のどこからか聞こえて来そうな開港166年の横浜盛夏を迎えています。
その龍馬が勝海舟を伴いこの横浜に来ていた記録を垣間見た事があります。 筆者が永く在籍していた英国商社・ジャーディンマセソン社(Jardine Matheson / 旧英一番館)の日本における歴史的資料と言うべき膨大な記録を関東大震災で全て焼失しているために、ロンドン・ケンブリッジ大学が保管している同社の歴史的文献と、当時、ロンドン博物館の隣りにあったJardine Matheson Groupのロンドン資料室にもその写しが残されていました。
そこにたびたび登場する人物の名前が『Saidani』だった事から、当初は日本人の名前とは思わず見逃していて気付かなかったわけですが、よくよく研究していた過程で、『サイダニ』は『才谷』の事で龍馬の父方の生家の姓であり、両替商でもあった本家の「才谷屋」を意味し、別項に出てくる『Umetaro』は『梅太郎』、つまり、「才谷梅太郎」の名は龍馬が特に身を隠す折の名前で、特にビジネスの際に坂本龍馬として最も多用した本名だったのです。
※ジャーディンマセソン社、150年史特別記念出版本『The Thistle and The Jade』(「アザミと翡翠」1982年刊)より。①龍馬が来社した当時の英一番館(大桟橋入口の跡地には現在シルクセンターが建つ)の外観の一部。②創業者の一人、ウィリアム ジャーディン(Sir. Willian Jardine)とスコットランドの国花、アザミの花がデザインされた筆者自慢のの150周年記念のカフスボタン。ジャーディン・マセソン商会は自社の商館の建設を鹿島建設の創業者である鹿島岩吉に依頼し後の同社事業の礎になった。日本最初の洋館建設は苦労が多く、1860年(万延元年)入母屋根の木造2階建ての商館が日本で初めて完成したと記録にあるーーー。
さて、当時の人名に関しては、大人の名前は基本的に「字(azana)」と「諱(imina)」の二つがあり、例えば西郷さんの場合は「西郷吉之助」がアザナで、「西郷隆盛」というのがイミナになり、吉之助が出世して隆盛に変わったというわけではありませんでした。
昔の武士が、皆、必ずアザナとイミナの両方を持っていた理由は「イミナは神聖なもの故にみだりに呼んでならないから」というのが理由だったわけですが、だからと言って面と向かって「信長さま」と言う輩は絶対にいないし、必ず「右府様」とか「御屋形様」とか「上様」とか肩書や敬称で呼んでいたわけで、イミナは本人が生きてるあいだは天皇から位を貰う時か公文書に署名する時くらいしか使わなかったわけです。
ですので、有名大名の諱(イミナ)である「(島津)斉彬 Nariakira」や「久光」などは世間にも広く知られているわけですが、坂本龍馬あたりの下級武士の場合は「直柔 Naonari」などと正式に自分の名で署名しなければならない機会は一生に一度もないのが普通ですから本人だって忘れているかも知れないレベルの話なわけです。
西郷吉之助にしても、彼が何という諱であるかなんて明治維新まで誰も知らなかったし、「確か、隆盛だったナ?」と誰かが言うのでそう記録したものの、実はそれは父親の諱だったという事実もあって、本当は「隆永」だったらしい筈のものが、西郷さん本人が「よかよか、今日からおいどんはタカモリでごわす」って笑って受け流した結果、そのまま西郷隆盛で今日まで来てしまったという事実もあって、諱は神聖といってもそんな程度のモノだったのです。
さて、その『Umetaro Saidani』氏が横濱英一番館に何をしに来たのか?ですが、都合3回来濱し、ジャーディンマセソン商会(英一番館)へは最初と最後の回に勝安房守海舟『来館者の署名ではAwanokami 』が同行しています。
ジャーディンマセソンと懇意になった勝は、その後、英一番館からの寄付や英国公使パークス、外交官・アーネストサトウ等の後ろ盾を得ると、勝サン独自の才覚で横浜港の造営事業に目を付け、明治維新で職を追われた旧幕府臣下の人々を救済する目的で述べ10数万人余の就労者を横濱に送り込むことに成功し、そのおかげで横濱港の基礎(現在の象の鼻)を初めとする港の原型が出来上がる事になります。
これらの一連のキッカケは坂本龍馬が、同社(Jardine Matheson商会)の長崎支店長だったトーマス・グラバー(後のグラバー商会)の部下として営業統括部長(実際はGeneral Manager 兼 日本最初の株式会社・亀山社中代表)として薩摩・長州・土佐を取りまとめる仲介役(エージェント)を務めていたことに由来しています。
更に、記録によれば、グラバー自身は人が良すぎて未回収代金のコゲつきや負債が山積した為、ジャーディンからの資金援助を打ち切られており、グラバーには龍馬に支払わなければならない船や大砲、銃器の販売手数料が無かったために、『直接、ジャーディン(横濱・英一番館)に受け取りに行ってくれと指示した』とあり、まさにこの1行の為に龍馬の横濱訪問が実現したのでした。
後年、龍馬の亡きあと、妻のおりょうさんがツテを頼って横濱を訪れ、令和の現在も横浜を見下ろす神奈川区の高台で暖簾を掲げる料亭『田中屋』(当時の名は「さくらや」で働き、仲居頭を務めるまでに至った経緯にはジャーディンマセソン商会が龍馬の来濱の度に『岩龜楼』(gankiroh)や、この「さくらや」を龍馬(こと才谷梅太郎)の滞在先として手配した事に由来しています。
好奇心が旺盛だった坂本龍馬の事ですから来濱の度に異国の風情が漂う往年の元町ストリートを訪れ、店舗を1軒1軒のぞいては土佐弁で質問を繰り返していた事でしょう。 もし、その時代にダイナースなどのクレジットカードが普及していたら、姓名欄に刻印されている名は「Umetaro Saidani」という事になっていた事は確かです。
Tommy T. Ishiyama